風景写真は誰にでも撮れるのか

ひさしぶりにシャッターを切りました。でも、なんだかα-7のシャッターボタンの調子が悪い?今までの押し量ではシャッターが切れないので、何度かシャッターチャンスを逃しました。まさか、故障?しくしく…。VC-7のシャッターボタンは調子がいいので、余計に際立ちます。
写真を撮っている最中、道を歩いてきたどこぞの警備員に声をかけられました。姿が怪しかったというよりは、同業者の偵察に間違われたようです(苦笑)「○○さん(聞き取れず)うちを撮って何してんの?」と言われたので。違うと答えるとそれ以上特に何もなく歩き去ってしまいました。青いレインコートをジャンパー代わりに使っているのが、警備員の制服に見えたのかもしれませんね。
街の写真を撮るときは、被写体との良い関係を築かないといけないのはわかるんですが、なかなか難しいものです。ファインダーの中だけで考えず、周りの雰囲気を読まないといけませんしね。私はいつまでも未熟者です。
さて、たまにはいつもと違う写真のお話を。
風景写真というのは誰にでも簡単に撮れるものであるという話しを聞くことがあります。「簡単」というのは、構図を考えるのが楽という意味の場合と、技術的に簡単であるという意味の場合があるようです。でも、そうなんでしょうか。
まず、構図が楽という話です。風景写真の場合、確かに被写体はそれほど動きません。雲や滝などを撮るときは被写体は動きますけどね。この場合風景写真というのは、野生動物を撮る写真は含まれません。ともかく、動かないから構図を決めるのは簡単だし、なによりお手本となるようなプロ(レッスンプロなども)写真そっくりに真似すればそれなりのものを撮影できるから、簡単ということらしいです。場所の紹介もよく本に掲載されていますしね。
しかし、それでは結局は二番煎じです。構図が同じでも違う写真を撮ることは可能ですが、同じような時間に同じような構図で被写体を狙っても、それは単なる思考停止です。ぱっと見ればいいなと思えるかもしれませんが、よく見ていくと面白くないも写真と感じてしまうものです。どこかで先にプロの写真を見てしまっているものですからね。
となると、構図も新しいものを、被写体も新しいものを、と探していかなければなりません。とはいえ、新しい場所を探すのは意外と難しいものです。絵になる風景は、意外と限られていることが多いので。きれいな花や形の整ったもみじの葉を探すのだって、丹念に周囲を見ないといけませんしね。
となると、構図を考えるのが楽というのは、常にプロの真似をする人にしか当てはまらないことになります。たまにご老体が集団で撮影しているのに対してこのような批判をいう人がいますが、該当するときがあるのかもしれません。私は実体については内部に詳しくないので不明ですが。
次に露出です。お手本には基本的にシャッタースピードや絞り、露出補正量などが書かれています。それを真似すれば、似たような写真を撮ることが可能、ということなのでしょう。だから、簡単ということ。でも、それは構図でのことと同じで、単なる二番煎じです。しかも、完全に同じ自然状態に遭遇することは相当困難なことでしょう。となると、露出は経験を元に大抵手探りということです。段階露出をすればそれほど失敗は少ないのかもしれませんけど、それでもはずすことはありますから、一概に簡単とは言えないことになります。
見る人に感動を与える構図は何か、その瞬間はいつか、光をどう捕まえるか、そしてそれらは常に新しいものか(革新的である必要はないでしょうけど)。それを意識しながら一度一度のシャッターを大切にする人の撮る「風景写真」は、誰にでも撮れるというものにはならないでしょう。
ま、ぐだぐだと自戒を込めて書き連ねてみました。でも、いわゆる風景写真を最近撮りに行かない自分がいます。自分の中にこうしたいというイメージが浮かばないことと、「人」が面白いからです。うーむ。